1988-08-04 第113回国会 衆議院 予算委員会 第1号
その後に、今の清算事薬団の理事長、杉浦さんが任命されて、国鉄部長とか鉄監局長をやって次官になった人だ、あの人が行った。ところが、重役が十五人いるらしいが、重役がみんな辞表を持ってきたのだね、お殿御乱心はおやめあそばせと。何ということはないんだ、民営はいい、しかしこの段階で国鉄内部がこれだけ反対している中で分割なんかやるんじゃとても我々はついていけない。
その後に、今の清算事薬団の理事長、杉浦さんが任命されて、国鉄部長とか鉄監局長をやって次官になった人だ、あの人が行った。ところが、重役が十五人いるらしいが、重役がみんな辞表を持ってきたのだね、お殿御乱心はおやめあそばせと。何ということはないんだ、民営はいい、しかしこの段階で国鉄内部がこれだけ反対している中で分割なんかやるんじゃとても我々はついていけない。
そう言ったのが、それからわずか三週間もしたら、運輸省の中の一番のかなめの鉄監局長が運輸省から総理府に転出をしてしまった。運輸省というところはこれで国鉄再建を本気でおやりになる気があるんだろうかと思ったんです。事実、そのことをやって三年後には、また赤字が営業収入の五割を超えるようなそういう状態になって、そして国鉄再建監理委員会ができる。
それでも運輸省の次官、鉄監局長をやっておられる。また、その副総裁以下今日まで営営として鉄道を守ってきた諸君が、今日までの鉄道は死んでおったんであろうかと、今度分割・民営化したら生き生きとなると、どういう感覚であろうかと。それは私も見て直観したんだけれども、今でも世間の人がそう言うわけだ。先生、九州なんかも分割されたらだめだというのに生き生きとなりましょうかと言う。
それはもう杉浦総裁だって鉄監局長経験なさっているから御存じのとおり。それがいつの場合でも、あの再建案のものがそのとおり実行されておったならば今日私はこんな事態は招かなかったでしょうと。案はつくられたけれども実際にそれを実行しないできては、またこれじゃ大変だ、どうにもならない、また再建案だということを繰り返してきたわけでしょう。
さて、この志木までの開通だけで本来的な埼玉県西部地域の通勤通学難解消が解決したとは言えないわけでございまして、最大の問題は、この志木以北に有楽町線、東武鉄道のいわゆる一般相互乗り入れがどう実現するかが実は地元における最大の課題でございまして、私は、当時の運輸省住田鉄監局長時代に、この志木までの開通と同時に、でき得れば志木、さらに川越市あたりまでいわゆる一般相互乗り入れによりまして同時の決着をつけるべく
杉浦さん、もうだれもいなくなりまして、そのときに申し上げましたのは、もうOBもだれもいない、そうすればあなたはもう次官をやめて今運輸省顧問としておられるけれども、そういう場合は運輸省も国鉄がこう相なりました責任がある、国鉄だけの責任というわけではない、いわゆる政府も責任がある、そういう意味で主管省である運輸省も、あなたは国鉄部長、鉄監局長、事務次官と来ているわけだし、そういう意味の責任はあるだろう、
これは運輸省として成案を見なかったということでございますが、私、当時の鉄監局長といたしまして大臣の御意見の補佐をしたこともございますので、大臣の小坂試案については十分承知をいたしておるところでございます。
それから、このときに国鉄総裁は鉄監局長から次官をやっていたわけでしょう。次官をやっていて一時これに当然賛成しておったのではないのですか。ところが今度はこれと全く反対のところへ来て国鉄総裁をやるなんというのは、あなた、それは役人だからしようがないといえばしようがないのかもわからぬけれども、ちょっと少し無責任じゃないかというふうに思うのです。
もしそうだとすれば、総裁はかつて鉄監局長もやっていたんだし、運輸事務次官もやっていたのでしょう、国鉄の直接指導の任に当たっていた総裁のそのときの責任は逆に言えばどうなるんだ。鉄監局長や事務次官在任中に総裁はそういう努力をしてこなかったのか。そういう御意見ならば、逆にみずからの非を認めてもらいたいですよ。どうですか。
こういったいわゆる総論的な部分でまず運輸大臣、さらに運輸省の中にあって、少なくとも再建法の時点であるいはその後の監理委員会法の時点で鉄監局長並びに事務次官の要職にあった現国鉄総裁ですから、みずからが立ち来った立場を十分踏まえた御見解を示していただきたいと思います。
あなたは四十九年六月から国鉄部長、そうして鉄監局長、運輸事務次官五十九年七月まで。途中、二、三年抜けておりますが、この経過をずっと計数的に追ってみますと、四十九年の六月の段階では長期債務が五兆五千三百八十一億円、運輸事務次官をおやめになった五十九年には十九兆九千八百三十二億円。三・五倍になっているんですがね。
鉄道部長、鉄監局長、運輸事務次官、私は労働組合の委員長も含めて、国会に来て十一年、この方とは全部我々と国鉄問題をやった直接の責任者です。赤字をつくった張本人が再建監理委員会に行って自分の意見を通す、それで合わなければ、自分のかつての官僚の力をもって片っ端から首を切る。あなたは後ろにおってか前におってか知りませんが、それを公然と公認する。
住田委員さんがたとえ選任されても、自分が鉄監局長をやり事務次官をやったんですから辞退するのが人間の常識じゃありませんか、官僚としても。それをぬけぬけと入ってあなたの知恵袋でやっているというから非常に遺憾であります。 その国鉄の茶番劇の背景にいわゆる政治的圧力がある。これは私は遺憾だと思うんです。介入しない、介入しないと言っていながら陰で圧力をかけている。
社会党の我々議員に向かって、今委員長がお話しした四十四年以降の問題を話しするんではなくて、当時の運輸大臣、鉄監局長、運輸政務次官、その方々にぜひ私は、社会党の議員に言うんではなくて、回れ右してその責任者に言ってもらいたい。なぜならば、四十四年以降私も動労の委員長やっていました。四十九年以来国会に世話になっています。
特に住田委員は、私が国会へ来てから随分鉄監局長なりあるいは運輸事務次官としてこの場で議論した方であります。政府委員当時の議論と今日進めておる再建委員会の委員としての考えがちぐはぐで、私は理解に苦しむ。ですからどっちの考えが本当なのか。
あなたがけしからぬと言うなら、一体後藤田が国鉄総裁になったら、おれならこうする、亀井委員長ならこうすると、かつての鉄監局長である住田、随分この国会では議論したあの住田は一体何を言っているのか、この議事録を見ると。鉄監局長のときはみそくそに言っておって、今度ここへ行けばまたみそくそ、こんな二重人格おりますか。そういうものを全部検証するために私は正規の議事録が必要だと言っているんですよ。
あなた方と一緒に仕事している住田委員そのものもこれに次々タッチしてきたんじゃありませんか、鉄監局長として、運輸次官として。国鉄行政の責任者でしょう、住田次官は。議事録見ればありますよ、私も何回も質問しましたから。そういう国の政策の根本的なことを変えないで、あなたに全部国鉄の処方せんをやれというのは国全体としては無責任である。任せられた亀井委員長に私は心から同情申し上げるんですよ。
運輸省鉄監局長、おいででございますが、国有鉄道という経営形態のもとで、法制上どこまで不動産業等関連事業部門が拡大できるのか、これを法制的に、あるいは社会、経済制度的に見て、それらに限界があるのかどうかといったような点について、現在の時点でおわかりの範囲で、簡単で結構でございますが、お聞かせいただきたいと思います。
○安恒良一君 鉄監局長はその当時局長じゃなかったかしらぬけれども、うそを言ったらいかぬ、うそを言ったら。京成がスカイライナーを引くときには、空港下にも乗り入れたいということの申請はしているんですよ。ところがそれは許可してないんだよ。それをあなたは、何かね、中間に駅をつくるからいいと言っている。あのね、外国に行ったり帰ったりするときは、荷物が重たいから中間なんかだめなんですよ。
今お話しのような点は、今鉄監局長がお答えいたしましたように、やはり十分検討いたしまして、これを国鉄に任せるということでなくて、もっと大きい立場で取り上げていかなければならぬ。
それからさらに、十五ページでございますが、モノレール、新交通システムの今後の課題としては、やはり先ほど鉄監局長からお話を申し上げましたとおり、経営収支の改善をいかにして図るかということが最大の課題ではないかというふうに考えておる次第でございます。
○井上(泉)委員 これだけの大きな仕事で、そして将来展望のあることについては、やはり政治的ないわゆる政策の面における決定というものが大事なわけでありまするから、私は、鉄監局長が今まで決めたとおりのことを幾ら言われても、実際これは実現は不可能だと思うわけです。
○細田国務大臣 今、鉄監局長からお答えしましたのは筋道の議論でございまして、今お尋ねになっておるのは、具体的にじゃどうするかということで、あるいは私がお答えをいたすということよりは、これは建設省の問題にもなろうかと思いますが、私どもの承知しておるところでは、明石海峡についてはおっしゃったように併用橋については相当問題があるのじゃないかというふうに聞いております。
——あなたは鉄監局長ですか。それは、あなたが着工のめどをいつだとかいうようなことはとてもよう言わぬでしょう。あなたが答えるから、私はあなたに問わなければいかぬようになるわけだ。見通し、あるのですか。 それから、あわせて質問するわけですけれども、併用橋となったらどこから線を引くのか。いつ着工して、どこから新幹線を引き入れるのか。
先ほど鉄監局長が答弁しましたが、当時は大きな仕事が済んだら国有鉄道と一緒にしたらどうだというようなことも一つの考えとしてあったことは事実なんでございます。